旅と史跡の記録

顕義園

顕義園

■概要■

弘前城は慶長16年に弘前藩2代藩主・津軽信枚によって築城されました。

山田顕義誕生地碑

山田顕義銅像

■見どころ■

山田顕義誕生地は「顕義園」として整備されている。

■歴史■

山田顕義は弘化元年(1844年)萩藩士・山田七兵衛の長男として誕生。安政4年(1857年)松下村塾に入門。大村益次郎から西洋兵学を学び、長州藩諸隊のひとつである御楯隊を結成。 戊辰戦争では、新政府征討総督の副参謀、陸軍参謀兼海陸軍参謀として戦い、明治維新後は、岩倉使節団の兵部省理事官としてアメリカ、ヨーロッパを訪れ、帰国後は陸軍少将として佐賀の乱を鎮圧、司法大輔に就任。西南戦争では別働第二旅団長として参戦。後に第一次伊藤内閣の司法大臣に就任した。

■ガイドパネル■

「山田顕義は、弘化元年(1844)、萩藩大組山田七兵衛の長男として中ノ倉に生まれ、幕末まで市之允と称していた。吉田松陰が主宰した松下村塾には安政4年(1857)14歳の幼さで入門した。のち久坂玄瑞らと行動を共にして、幕府側との抗争において京都の禁門の変で敗走した。しかし、四境戦争(幕長戦争)や戊辰戦争では、倒幕派の志士として諸隊を率いて勝利に導いた。 維新後は、岩倉使節団に加わって欧米諸国を視察し、西南戦争平定の功により陸軍中将に昇進した。さらに、第一次伊藤博文内閣のもとでは司法大臣となった。また、教育を重視して、日本大学や國學院大學を創立した。明治25年(1892)没、享年49。」

■観光情報■

所在地:  山口県萩市椿東 
アクセス:  中ノ倉バス停 徒歩約5分 
御朱印/御城印など:  - 
オフィシャルサイト: なし